自分の気持ちをそのまま書くのは難しいけれど
とにかくPCに向かって、出るままに書き連ねてゆくうちに
会話の中のふとした瞬間にするすると流れ出す本音みたいなものがあって
出るまで待っていたものの
なかなか、一向に言葉となって表に出てこなかった。
このままじゃなぁと思いながら
考えてもわからない
どうしたらいいんんだろうの堂々巡り
なにかやりたい気持ちがふくらんで
前を向いて歩いているようでいて
もしかしてこの気持ちは
周りのひとからの言葉だったり期待や思いに後押しされて出てきたものなんじゃないか?
という疑問がなかなか抜けず
そこと、自分の本当の気持ちとがごっちゃになってわからなくなるもどかしさを抱えながら
なんとか見誤らないように、答えは出せないものかと
ゆるみきってしまったように見える脳で考えていた。
けれど日々はあっという間に過ぎていき、
三月のライブが終わった後には家族全員気が抜けたのかダウンして
一週間ほどまるで使い物にならず
焦っているわけではないけれど
もやもやとしている自分はずっとそばにいたように思う。
なんらかの形でお店をやりたいと思っているような気がする自分と
予定が決まっていない毎日を、時間に追われずに過ごせる朝を味わいながら
凪のような時間の流れがあまりにも楽で、心地よく
こういう時間をずっと求めていたんだろうなと思う自分もいる。
きっとどっちも本当で、なにが間違いとかないのだけれど
決めることで動き出す流れというのもあることはわかっていたから
三月がもう終わりに近づいていることに
むむむ、と思う自分がいた。
これまでお店を通してシェアしていたおいしいコーヒーも、お米やお野菜も
自分だけで、自分の周りだけではなんとなく持て余すというか、
こんなにいいものを知っているなら届けたいよな、紹介したいような気持ちも
場を閉じてみると確かにあって
それならばやはり、店なのか?
でも、そうではない気がする・・・
そんなぐるぐる思考の中にいたような気もする。
今の私にとって、定期的に、同じリズムで、決まった日時に店という形で場を開け続けるのはやっぱり難しいように感じる。
自分の性格もあるし、3歳の子との日々を大切にしたい今もあるし。
それでいてあの場所は、大好きだけれど私にとっては広すぎて、
ひとりではとても使い切れない、行き届かないくらいの空間で
だれかと共に開いていく場なんだろうと、それはずっと思っている。
このまま潔く閉じる方がスッキリするのかと、何度もそれも考えた。
でも、踏み止まる私がいる。
なにかこう、ちがう形で、あの場所を大切に思ってくれている人たちと
使っていけないだろうかと。
あの広さがあるから、靴を脱いで過ごすお家だから、お庭があるから、二階建てだから、できたことがたくさんあって、あの場の可能性は無限大というか、あらゆるものを受け入れ表現させてくれた空間だった。
ここに書き連ねてみようと一瞬思ったけれど、あまりにも多岐にわたっていて書けない。
それに、これからのあの場の使い方は、これまでに倣う必要は全くなく、より自由な発想でいたい。
ある朝あたまのなかに浮かんできた言葉
”共有地”
英語では “common land”
あらゆる意味を内包するような
それでいてどうとでもとれるような
どう在ってもいい場があるといい。
自分ひとりではできなくとも
それでいいんだって思える場所。
言葉にすることはいくらでもできるといえばできるけれど、
言葉にしきれないものもたっぷり含ませたままでいたい。
音楽や映画、本やおいしいもの、あらゆるものを分かち合う場であり
思いや言葉を交わしあう場でもあり
ただただぼんやりと時間を過ごしたり
しばしからだを横たえて休める場であり
その時々で揺れ動きながら変化していく場所
それは生きている毎日そのものの延長線上にあるといい。
特別でなくていい。
揺れるのが当たり前として、受け止めあって、個々でいられる場所。
”共有地” という言葉の前に
”○○の共有地” としてみようかとも思ったけれど
そこにいろんな言葉を入れようとすればするほど
なんかちがうな、という感覚。
”○○”
この余白に入るものはいかようにも。
あの場を ”共有地” として一緒に使ってみたいひとがいたらいいなと。
共に、有る、地=場所
何をしたいか、どんなふうに使いたいか、決まっていなくてもいい。
それはこれから考えるとして
あの家で時々過ごしたいな、なんかできたらなって思っているひとと
一緒に使ってみる試みを始めてみようかな、という気持ちでいます。
気になる人は、DMやメールをくれたらうれしいです。
今考えていること、伝えます。
inagurashi@gmail.com
4月初旬に、これからのこの場の在り方を話す場を開く予定です。
詳細はまた後日に。
いな暮らし 店長 萌より